ぼくらが考える未来の世界
1
もうたぶん多くの人が気づいているけれど、システム化する方向のみでは、広い意味での地球環境全体はよくならない。
あらゆる事物が「無限」に複雑な相関関係を持って成立しているのが<地球環境=自然>であり、それをピックアップされた有限数の事象をもとに改良・改善しようとしても、その行いの規模が大きければ大きいほど、また徹底しようとすればするほど、新たな、そして、さらに大きな問題を引き起こしてしまう。
地球環境のシステムに較べれば、国家や企業などという遥かに薄っぺらいシステムの上に成り立つ共同体が、そのシステムを盾にとって、「それはいいことだと思うけれども、できない」ということがまかり通ってしまう。善意によってつくられ、いかに精査されたシステムでも、程度の差はあれ、そのようなほころびを避けられない。
だから、組織人として、という立場の人と話をすると窮屈だ。システムの中にいる人は、「無限」の中で成立する思考をシャットアウトするしかない。それで、酒を飲んだりしながら、シャットアウトされた部分を開放しようとするのだろうが、本質的なことについてはいかなる場合においても「無限」の中で成立する思考によって、物事を進めるべきではないのか?
「無限」の中で成立する思考がシャットアウトされることにより、その人が本来持っている創造的な能力が生かされないまま、年を重ねていく人がたくさんいるだろう。のみならず、そのような人が上に立つと、共に仕事をする人の創造的な能力も生かされない。さらに、創造力を持たない組織は、創造力が求められる仕事を生み出すこともできない。そのような負の連鎖でできた組織の群れが、ただ既得権益を守るために存在し続けている現状があると思う。
このことは、地球環境全体にとっての大きな障害であり、同時に、個々の人生にとっての大きな不幸ではないだろうか。
なぜなら、新しく<システム化すること=つくること>をやめられないのが人間の性だからだ。それは、人間のみに与えられた能力なのだから。もちろん、そこに人間の喜びもある。
物理的な地球環境のみならず、創造の喜びを未来の世代へと引き継いでいくことを考えよう。
2
有史以来、システム化を担ってきたのはほんの一部の有識者たちだったが、20世紀の後半になって、多くの庶民が高等教育を受けられるようになり、さらに、情報社会が世界に広がったことによって、世界中のありとあらゆる人たちが、<システム化すること=つくること>に参加できる時代がやってきた。
創造の喜びを、だれもが享受できる時代が訪れたのだ。この変化は紛れもなくポジティブなこととして評価されるべきだが、一方で大きな問題にぶつかっている。
世界中で多くの<もの>や<こと>が創造されることで急速に多様化される社会に対し、即座に情報が追いつく。今日の発明は、明日には全世界に知れわたるという毎日が連続する。このまま行くと、つくることの新しいアイディアは出尽くしてしまうのではないか、と危惧する人もいる。創造の源泉は、枯れることはないのか、と。
アイディアが浮かべば、他人に先を越されないことを懸念する。創造の源泉から湧く限られた水を、他人と競って取り合うような貧しい心が、創造行為に伴うようになってしまった。
また、創造的な仕事を求める人の数に対し、創造力を求められる仕事の数は圧倒的に少ないことも、上記に拍車をかけている。
このままでは、つくることの未来に夢を抱く若者たちがいなくなってしまうかもしれない。
未来の世代も含めて、多くの人口が創造的な仕事に携わり、創造の喜びを生きる糧にするためには、どうすればよいだろう?
3
生命の輝きは、何かをつくるプロセスの中にある。
できあがった何かは、できあがった瞬間に自分の手を離れて、自然の中へ投げ出され、時間とともに壊れていく。風化していく。
それが誰かの目に止まり、次につくられるものの参考となって、その背中を押す。今度はその人の生命が輝く番だ。
それが永遠に繰り返される。
上記が、グリッドフレームの理想としている「創造性の連鎖」のかたちだ。
解釈を拡大していけば、ものづくりのみならず、制度など無形のものを含めたあらゆるつくることについて当てはまると考えている。
まず、大事なことは全力でつくることだ。自分の創造力を余すことなく、出し切る。その際のさまざまな苦難を含めて、ここに人生の喜びは凝縮される。
できあがったものを自然の中へ手放す。それを作品と呼ばず、名前も残さない。
自然の中へ手放すと同時に、ものは時間の作用を受けて壊れ始める。いつも、つくることと壊れることが均衡することを理想とする。
できあがったものはそれ自体の価値のみならず、いつも、次の創造のための素材としての価値を持っていると考える。
だから、その障害となりかねない著作権やら特許やらの制度に対しては否定的である。それらは既得権益をつくる仕組みのひとつであり、創造にゼロからの発想などどこにも存在しないと考えるからだ。
東京オリンピックのロゴ問題でPinterestを「コピー・サイト」と揶揄する人たちがいたが、そこで興味を惹かれた対象をさらに進化させたい、と考えるタイプの人間こそ、世界に必要とされているのではないか、と思う。一見似ている二つのもの同士の微細な違いこそが創造力が結実したものである場合もあるだろう。コピーなのか、コピーじゃないか、は少なくとも単純に外から判断できる類のものではない。
また、単にコピーをすることは、そもそもそこにつくる喜びがないのだから、すでに罰を受けているようなものだ。
未来にここを通るかもしれない人へ道を空けておくために、作品として閉じることをやめる。自身も、つぎの創造へとりかかるために、できあがったものを手放す。
これを前提とした創造行為は、「無限」に枯れることのない創造の源泉と、誠実につくることの喜びを、永遠に約束してくれるのではないだろうか。
4
グリッドフレームは、一つの空間をつくる中で、「創造性の連鎖」を実践している。平均3ヶ月のプロジェクト期間の中で、時間の作用は目に見えないことも多いが、クライアントを含めて制作に関わる人間全員の創造力を生かした、素材としての空間を実現している。
一つのプロジェクトとしての「創造性の連鎖」は、つくるものの規模が小さくなければ機能しにくい。プロジェクトが明確な目標を持つ限り、プロジェクトへの参加者はその全体性をニュアンスを含めて共有できること求められるからだ。
だが、冒頭で書いたように、つくる規模は大きければ大きいほど、広い意味で地球環境に対して問題を引き起こす確率が高くなる。小さな規模の創造には、そのリスクが著しく少ない。
また、前述した通り、「無限」の中で成立する思考をシャットアウトした人が、負の連鎖によって創造性を持たない組織をつくりあげるように、創造的な人の周りには創造的な人が集まり、より広がりのある創造性の連鎖をつくりあげる。
そうして、多くの人口が<システム化すること=つくること>の仕事に携わることのできる世界が形成されていくだろう。
大きな組織には、ならないほうがよい。小さな<もの>や<こと>を少人数で誠実につくっていく。そのようなプロジェクトが世界中にあふれ、さまざまな新しい価値が創造されていく。
ぼくたちはそんな未来像をまぶしい目で見つめている。